黒澤明監督作品でスクリプターとして活躍した野上照代さんと言えば、映画「母べえ」原作者としても有名ですが、どのような方なのか?

父や姉など家族、結婚や子供、経歴wikiプロフィールについて興味があったので調べてみました。

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野上照代さんのプロフィール

名前:野上照代(のがみ てるよ)
出身地:東京都
生年月日:1927年5月24日
年齢:90歳(執筆時)
学歴:都立家政女学校、図書館講習所卒業

野上照代さんは1927年東京都生まれ。

1944年に図書館講習所を卒業後、山口県の山口高等学校に図書室に着任しますが、終戦後、東京に戻ります。

1946年に人民新聞社に入社し、翌年、八雲書店に入店。

1949年から大映京都撮影所でスクリプターの見習いになり、50年に黒澤明監督「羅生門」にスクリプターとして参加。

1951年、東宝に移り、「生きる」以降のすべての黒澤明監督作品に参加し、1979年に退社。

1984年に、自らの少女時代を描いた「父へのレクィエム」が読売ヒューマンドキュメンタリーの優秀賞を受賞。

2008年に同作品が山田洋次監督により「母べえ」として映画化されました。

野上照代さんの父親

野上照代さんの父親は、ドイツ文学者で神戸大学教授だった野上巌氏です。

野上巌さんは山口県出身。東京帝国大学独文科を卒業し、日本大学予科の教授に就任し、1929年にプロレタリア科学研究所に参加。

1931年に日大を辞職させられ、1932年に唯物論研究会に参加し、その後治安維持法違反で投獄されます。

野上巌さんの投獄については、「母べえ」にも描写があり、映画では獄中で死去しますが、これはフィクションで、実際には後に釈放されています。

戦後は日本民主主義文化連盟、民主主義科学者協会などの創立に参加し、1955年に神戸大学教授となりますが、わずか2年後の1957年に肝臓がんで逝去します。

野上巌さんは、マルクス主義に傾倒した左翼の知識人・文化人で、体制に抗って生きてきた半生だったのですね。

長いものに巻かれたりせずに、投獄の憂き目にあっても一貫して自分の信念や理想を貫こうとする生き方には敬服させられます。

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野上照代さんの姉

野上照代さんには3歳年上の姉がいて、名前を初恵さんとおっしゃるのだそうです。

初恵さんは戦後、共産党中央委員の黒木重徳さんと結婚したとのことです。

黒木重徳さんも、野上巌さんと同様、治安維持法で投獄されましたが、戦後出獄しています。

野上照代さんの結婚

野上照代さんの結婚についてですが、特に情報は出回っていないようです。

野上照代さんは、若い頃、伊丹万作監督にファンレターを書いたのがきっかけで、伊丹家と親しくなり、伊丹万作監督の息子である伊丹十三さんと1年間同居していたことがあります。

ただし、当時伊丹十三さんは小中学生くらいの年齢だったので、姉代わりに面倒を見るという関係だったようです。

後に野上照代さんは、伊丹十三さんに最初の結婚相手となる川喜多和子さんを紹介しています。

ただ、残念ながら、野上照代さんご自身の結婚についての情報は見つけることができませんでした。

以上、野上照代さんについてでした!